episode 7 Decide (1/4)
頭上を見上げたサチの視界全面を覆う蝶の羽根模様。
到底現実のものとは思えぬその光景に心を奪われたサチの耳に、犬の吠え声が響く。
「メレンゲ?」
サチの家の飼い犬メレンゲの声である。その声でサチは、メレンゲが母綾子の手で一緒にこのランファ号に連れられてきていること、そしていま自分もそのランファ号にいるのだという現実に引き戻される。
「ルナティックビートか……」
現実に引き戻されたサチの耳に飛び込むのは、今度は苦々しく吐き出されたナタクの声。
「ルナティックビート?」
「そうだ。ケルビム直属の配下、パールバディと名乗る女の能力とされているが……。電子機器は無効化されたが、動物の防衛本能だけは反応してくれたようだな。」
パールバディ……その名はいまのサチにとっては忌々しいものでしかない。
「ルナティックビート、どういう能力なの?」
「ご覧の通りだ。詳しくは分っていないが、とりあえず電子機器、とりわけレーダー、センサーの類はほぼ完全に丸裸にされるようだな。」
「じゃあ……」
「ああ、敵はすぐ近くにいる。」
ナタクがそう答えた瞬間だった。
「あら、わたくしの能力、多少は漏れ伝わっているのですね。ナタク、あなた、やはりケルビム様に近づいたのも、こちらの動向を探るのが目的だったというわけですね。」
その声はサチの記憶に焼き付いた声。
パールバディ、その人であった。
光すら放っているかのような見事なブロンドは背中まで伸び、透き通るような白い肌に整った顔立ち、その細い身を包む白い衣装は、海上の強風に煽られている筈なのに激しく揺れることなく、まるで高原のそよ風に煽られているかのように静かにたなびいていた。そして、彼女がランファ号のデッキにその現実離れした姿を見せたと同時に頭上の羽根模様は一斉に姿を消した。
「ふん、どうせこれも幻だろうが……」
パールバディの姿を認めたナタクは、言いつつ右腕をゆっくりあげ
「拳銃?いつの間に?」
サチが思わず呟いたほど、何の前触れも動作もなく、その右手には拳銃が。それもデザインから判断するに、かなり旧式の銃である。
「おや、いきなり銃を突きつけるなんて、ひどいお方ですね。」
「ふん、銃を突きつけられても顔色ひとつ変えないお前の方が尋常ではないと思うがね。」
「それは確かにそうかもしれませんが……それにしてもナタク、あなたの能力、なかなか興味深いですね。しかもお出しになる銃も恐ろしく古いものを……南部十四年式でありましたか?」
「よく知っているじゃないか。」
「あなたのこと、ケルビム様から多少は聞き及んでおりましたので。」
「そうか……ただ、その呼称は正確じゃないな。十四年式に南部大佐(旧日本陸軍砲兵大佐)殿は、あまり関わってはおられないのだよ。」
「それでも、咄嗟の時にはその銃をお出しになるのですね。」
「習慣というものは、そうそう変えられるものではないさ。分るだろう?お互い若くないのだしな。」
「まぁ、レディに対するには失礼な物言いをなさるのですね。」
「ぬかせ!」
これ以上軽口につきあってはいられないとばかりにナタクが十四式自動拳銃の引き金に指をかけたその瞬間、
「ナタク、あなた、怖いお方ですね。ネオ相手の時は、やはり本気ではなかったのですね。ケルビム様の仰る通り、組織側の改造兵士では一番の要注意人物ですわ。あとはキングにお任せしましょう。」
その声を最後にパールバディの姿も気配も消え失せ、代わりに……。
「十三号とナタク、なるほど主戦力のうち二人が顔を揃えてくれているとは好都合だな。」
低い男の声が、海上から聞こえてきた。
「この声は……」
その男の声が耳に届いた瞬間、サチは弾けるようにして声の方向に振り向いた。
彼女の記憶の中にある声とは微妙に違いながらも、彼女が聞き間違えることのないその声の主は……。
「立花……君?」
「立花和也だと?」
サチの声につられてナタクもその視線を移すと、そこにはようやく明るくなり始めた海上に立つ黒い人影。
そう、その足下には何もないにも関わらず、水面に立つ黒いセカンドスキンに身を包むキング、立花和也の姿だった。
「何だ、あれは?」
尋常ならざる光景を前に唸るナタク。
「あれが立花和也だと?しかし……」
ナタクが戸惑うのも無理はなかった。
水面に立つ立花和也の姿、特にその顔つきは、本来の年齢に応じた少年らしさがほぼ皆無と言って良いまさに成熟した大人の男のものだったからだ。全身のシルエットも、少年らしからぬマッシブな印象。総じて言えば、そこにあるのは十七歳の少年の姿とは言い難い。
特にナタクの場合、立花和也とは直に対面したこともあり、その時の印象といまの姿がすぐには結びつかないようだ。しかし、対して学校で頻繁に接していたサチの方が、現在の和也の変貌ぶりに戸惑いそうなものなのだが、彼女の反応にはそうした戸惑いはない。
「立花君!」
弾けるようにデッキの柵に飛びつきながら、その名前を叫ぶサチ。
「無事だったの?」
必死に問いかけるサチ。その目には、和也の変貌ぶりも、現在彼が水面に立っているという異常な状況も入ってはいないようだ。
「十三号!」
そのサチに異常を感じ、ナタクが叫ぶ。
「十三号!状況が分っているのか?」
「状況?」
ナタクの声に怪訝な顔を見せるサチ。
「いまの立花和也の姿と状況を見て、何とも思わないのか?」
「え?……でも、立花君が……」
「冷静になれ!十三号。あの変貌と水面に平然と立っている能力。立花和也は、もうお前の知っている立花和也ではない。」
「それは……」答えつつ、再度まじまじと水面に立つ和也の姿を見る。「確かに状況はそうかもしれないし、セカンドスキンを纏っているけれど……立花君だもの。何一つ変っていないもの。」
「何だと?」
サチの返答にナタクは顔をしかめる。
「あの立花和也の姿が……か?俺は彼と直に会ったことがあるが、別人と言っていいほどの変わりようだぞ……確かに面影はあるが……以前の彼が少年だというなら、いまの彼は見た目だけなら、立派に成人だ。」
「そんなことを言われても……。わたしには変っているようには見えないもの……」
「だから、十三号、冷静になれと……」と言いつつ、ナタクはふと思った。
サチから見て、和也の姿がそれほど変っているように見えないのは、心理的なものではないのではないかと。彼女の目は、世界を自分とは違う視界で捉えているのではないと。
(十三号やゼロの進化を思えば、我々とは違う視界を持っている可能性も無視できないかもしれんな)
ナタクはそう考え、和也の外見上の変化について、サチと話すのを一旦取りやめようと思ったその矢先
「お前達は何を言っているのだ?」
和也の声が、響く。
「立花和也?立花君?十三号、それにナタクだったか。一体、何のことなのだ?」
「立花君……何を言っているの?」
和也の言動もそうだが、ナタクとのやりとりにより、さらに戸惑いの大きくなったサチが問い直すと
「ああ、俺のことをそう呼んでいたのか?立花和也と。」
まるで、それが他の誰かの名前であるかのように答える和也。
「いまの俺はキング。全ての改造人間、人ならざる者、人を超えた者、全ての“長”。立花和也などという人としての名前は、もう必要ない。」
サチは、その和也の言葉により、驚愕で身を震わせた。
かつて、“緑川サチ”という人としての名を大事にしてくれた和也。彼女が求めた時、躊躇うことなく、人の名で彼女を呼んでくれた和也。
その和也が、人の名を捨てたと言い放ったからだった。