episode 1 End (1/4)
今日はたまたまだろうか?
二年A組の教室に辿り着いた緑川サチは、クラスで一番最初に登校してきたのが自分であることに気がついた。
(まぁ、休み明けだし、こういうこともあるかな?)
そんなことを思いながら席に着き、鞄から小冊子を取り出した。
大学関係の資料である。
いよいよ、三学期になり、サチ達二年生もそろそろ真剣に進路について考えなくてはいけない時期にさしかかってきた。
サチとしては、家の商売である洋菓子店の手伝いをするため、もっと具体的に言えば、後を継ぐためにも、専門の学校に行くべきか、それとも四年制の大学に行くべきか、迷っていたのだった。
こうした問題に関して、母親の綾子は基本的には何も言わない。
学校の勉強に絞って考えれば、サチは血の繋がりはないとはいえ、母親の影響か、どちらかといえば理数系の方が得意だし、実際好きな科目でもある。だから、三年からのクラス編成では理数系クラスに入る予定だ。さりとて、理学系、工学系に進みたいのか?といえば、それはまた違う話にも思えてくる。
「本当のところは、どこかの学校に行くより、誰かさんのお嫁さんがいいんだよね?」
ふと、進路について話し合っている時に飛び出たクラスメイト神崎ゆかりの言葉が思い出された。
と同時に、一人顔を赤らめるサチ。
「そんなことはないってば!」
あの時、必死になってサチは否定したものだったが、脳裏に浮かぶある少年の面影は消せない。
「それに……。」そして、この後、発せざるを得なかった自分の言葉を思い出すと、いまでも少し切なくなる。「わたし、改造人間なんだし……。」
だから、普通の幸せが手に入るなどとは思ったことはない。
もっとも、その言葉を口にした途端、二人しかいない部屋の中、グリーンリバー二階のサチの自室で、ゆかりは猛烈に怒り、そして……謝った。
自身のことが分っているだけに、ゆかりのような友人に恵まれたことに、そして、いまこうして大勢の同年代の者達と同じ時を過ごせていることに感謝し、この自分の境遇が僥倖に思えるサチである。
「あと、少し……。」
サチは、自分の席の机の上に指を走らせながら呟いた。
「あと、少し、一年とちょっと……それまでの間だけでも、ここにいられたら……。」
切実にそう思うサチは、ガラリと教室の扉が開く音を聞いた。
「あれ、緑川、一人か?」
「立花君……。」
思わず席を立ち上がった視線の先の人物。
クラスメイトの立花和也である。
その顔を目にした時、サチは微妙な違和感を感じた。
やがて、その違和感の正体が、彼の身長なのだと気がつく。
「あれ、立花君、身長伸びた?」
「あ、ああ……。」照れたように頭をかく和也。「まだ成長期終わっていないみたいでさ。参ったよ……。」
そうして教室に入ってくる和也の姿、冬休み前よりも背が伸び、精悍さを増した彼の姿に一瞬、サチは言葉を失った。
(ああ、男の子なんだなぁ……。)
突然、そんな考えが脳裏をよぎるが、同時に
(わたし、何だかおばさんみたいなこと考えている……。)
という自嘲的な思いも湧いてくる。
一方、教室に入り、サチに近づいた和也は、彼女をじっと見ながら
「あれ、緑川、お前も背、伸びたんじゃないの?」
とひと言。
「え、ええ……。」
実はそうなのである。
和也ほど目に見えての変化ではないが、サチ自身多少ではあるが、身長が伸びていた。秋口、百六十センチを少し過ぎたくらいだった身長も、いまでは百六十五センチを優に超えていた。
「もう、ゆかり(百六十五センチ)より背が高いんじゃないか?」
「え、そんなことないよ。多分、同じくらいだよ。」
実際には、彼女の身長はゆかりを追い抜いているのだが、なぜだかそれを認めたくない気持ちのサチである。
「そうかな?」
サチがややムキになって反論したからか、和也はそう答えたきり、それ以上身長については追求せず、黙って自分の席に座り、そうしていつもとは違い、彼の方からサチの席に近づいてきた。
サチの席は、廊下側の一番前。対して和也は窓側後方。二年A組の教室の中では、それぞれ対角線に位置する関係である。いつもは、和也の席の近くに、共通の友人、神崎ゆかりと佐久間忠がいることもあって、サチの方から和也の席に近づくのだが……。
「そういえば、緑川、三年のクラス希望、理数系クラスを選択したんだよな。」
「ええ。」
いつもと違い、自分の席で和也を迎えたこと。そして、それに加えて、冬休み前に比べ、より精悍さをました彼に間近で話しかけられ、サチはいつにも増して緊張していた。
「俺もだよ。理数系は、文化系に比べると数が少ないらしいから、また同じクラスになるかもな。」
言われてみて、サチは初めて和也の言う言葉の意味を実感した。
彼の言う可能性については、考えないでもなかったのだが、あらためて他の人間、特に親しい人間に言われると急に実感が増してくる。
(そうだといいな……。)
思いを口に出さないサチ。
口に出してしまったら、それは儚く霧散してしまいそうな気がするサチである。
そのサチの思いを知ってか知らずか、和也の口は動き続ける。
「でも、不思議なのはさ……。」と視線は、自分の席の辺りに。そこは和也の席があるとともに、クラスメイトにして、和也の幼なじみ、そしてサチの一番の親友でもある神崎ゆかりの席がある辺りでもある。
「ゆかりまで理数系クラスを選択していることだよな。あいつ、理数系得意というわけでもない筈のに。」
「え、でもゆかりさん、数学なんか割と好きだし、点数も悪くないのよ。」
他の科目の事は口にしないサチである。
「う〜ん……間近で接している俺でも、そのイメージはないんだよな。てっきり、忠と同じで文系クラスを選択すると思ったのに。」
「でも、わたしは嬉しい。また、ゆかりさんと同じクラスになれるかもしれないし。」
同じクラスになれる可能性が高くて嬉しい相手は、ゆかりよりも、むしろ、和也のことなのだが、それは口に出せないサチ。
「おいおい、忠の方はどうでもいいのかよ。」
苦笑する和也に、サチは「そんなことない!」と手をバタバタとさせて慌てて否定。
その様がおかしかったのか、和也は大きく笑うと、今度は一転して真剣な表情に。
「なぁ。」そのいつにない和也の表情に、どきりとするサチ。
「だったら、俺は?」
「え?」
和也に見つめられ、一瞬思考が停止するサチ。
「俺はどうなのかな?」
戸惑うサチに、和也の追い打ちは続く。
「なぁ、緑川、前々から言っておきたかったんだけど、俺……。」
余人のいない教室。
二人だけの空間。
いつもより以上の近い距離。
サチは、戸惑いつつも、ある種の期待感を以て和也の言葉を待つ。
「なぁ……。」和也にしても、いつもの話しぶりに感じられる軽やかさはなく、やや唇の動きもぎこちない。サチの目は、その口の動きに、耳は、その口が発する言葉のひとつひとつに否応なしに集中していく。
「俺……。」
和也の言葉がそこまで出たその時
ガラリ、と教室の扉が開く音。
はっとして振り返った二人の視線の先には……。
「あれ、二人とも早いね。」
クラスメイトにして、和也の幼なじみ、神崎ゆかりだった。
「いつもはわたしが一番なのにね。」
言いつつ、鞄を自分の机の上に無造作に置くゆかり。
「途中、港の方に自転車で寄ってきたもんだからさ。」
「港に?どうして?」
言いつつ、サチは和也との距離をゆっくりととる。残念とも安堵もつかない感情が、サチの中にあった。もてあました感情と言うべきか。彼女自身、それをどう捉えて良いのか分らない。
「蘭花(ランファ)だったかな……港に、中国船籍だかの大型客船が来ているでしょう。」
「ああ。」とサチ。
その話なら、サチの暮らす商店街でも有名だった。
名称に関しては、ゆかりの記憶は正しい。船の名前は「蘭花(ランファ)号」という。
船籍も、彼女の言う通り、中国船籍である。その蘭花号は、つい一週間ほど前から、F市に寄港していたのだった。
さらに言えば……。
「驚くよね、ほとんど町一つ分の機能があるらしいのに、定期航路を持たない、完全な個人所有の船だって言うんだから。」
そうなのだ。ゆかりの言う通り、個人所有の船舶。そして、その個人所有の大型客船は、オーナーのある人物一人の為に航海しているというのだ。全長二百メートルにも及ぶ大型船が、である。
「中国の人がオーナーらしいけど、どれだけお金持ちだっていうのよ……。」
憤懣やるかたないといった風でそう言うゆかりに、サチは苦笑する。
「別にゆかりさんが怒ることでもないでしょう?」
「そりゃ、まぁ、そうなんだけどさ……。」
ゆかりと他愛のない会話を交わしつつ、サチはちらりと和也の方を見た。
サチの気のせいだろうか?
立花和也は、なぜか憤慨しているように見えた。