お昼休みに、杏のパイ投下
例によって、アーカイブ
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結局、サチは朝が来るまで目を覚ますことはなかった。
その代わり、いつもの時間どおりに目を覚ましたサチは、自分の横で寝ている綾子の姿を見ることになった。
(何で?)
一瞬、事態が理解できなかったサチだが、起きあがってすぐに足の痛みが神経を刺激し、徐々に昨晩の記憶が蘇ってきた。
(そうか、わたし、足が痛くて立てなくなって、それでこの部屋に寝かされて……。)
そこまで考えが及んだ時、サチは改めて隣に寝ている綾子の存在を疑問に思う。
(わたしの隣、あの女の子が寝ていた筈だけど?)
疑問に思いつつも、ことの経緯は綾子が話してくれるだろうとサチは思い直し、再度綾子の顔を覗き込む。
「お母さん……。」
口に出してみるが、やはり気恥ずかしい。
いま現在、綾子が寝ていると分かっているからこそ口に出せたのだが、いざ綾子を前にして本当に口に出して言えるのか、サチには全く自信がない。
実のところ、二人きりの時でも、綾子を「お母さん」と呼びたいとはサチは以前から思っていた。
思っていたが、なかなか実行に移せないでいたのだ。
しかし、昨晩、あの恐ろしい改造人間たちを前に見せてくれた綾子の姿。あの姿を見てからは、以前よりも綾子を「お母さん」と呼びたいという衝動が強くなっていた。一方で、その行為に対して「照れ」を感じているサチでもあるのだが……。
(今日こそは……多分、呼べるよね……。)
それは、思いというよりは願いに近かった。
そうしたことを考えていると、ふと自分が空腹なことに気がつく。考えてみれば、昨晩和菓子屋で主人から試作品だという白玉饅頭をふるまわれて以来、何も食していないのだ。空腹感も無理なからぬところである。ましてや、彼女は毎朝の食事を欠かさない生活を続けているのだ。このことは、清崎によりかなり徹底的に躾けられていた。
清崎といえば、元々、この家の主人でもある綾子は家事全般が得意とは言えない。だから、覚醒し、ともに生活するようになってからは、その清崎に色々と教えてもらいながら、サチが家のことで出来ることを増やしながら何とか生活しているといった状況である。なので、こうした時に、サチは自分で食事を考えたり、用意したりすることにはかなり慣れてきている。いまは、清崎が時々家に上がって色々としてくれるが、その割合も最近は随分と減ってきているのだ。
だから、サチは、いつものように立ち上がって台所に向かおうとしたのだが……。
「痛い!」
昨晩以来の足の痛みは、かなり楽になったとはいえ、まだまだまともに動けるようになるまでには至っていなかった。
サチは、何とか尻もちをつきそうになるのをこらえながら、台所まで歩き、椅子に座りこむのが精いっぱい。
(これじゃあ、満足に動けないなぁ……立てるだけ、まだましだけど……。)
そんなことを考えながら、空腹な体を持て余し気味のサチを、玄関の呼び鈴が呼びたてた。
玄関と言っても、住居部分のものであり、通りに面した店舗部分から見れば裏手に当たる。
サチは、痛む足を引きずり、途中這いながらも何とか玄関にたどり着き、そのかけられた内鍵とチェーンフックを外す。
「どうぞ……。」
やや苦しげながらもそう言うサチに応えて、扉を開けて顔を覗かせたのは、和菓子屋の主人。
「おや、さっちゃん。」今日は、茶トラの猫ミタラシを抱いてはいなかった。「昨日の晩、私は途中で寝てしまったみたいでね。さっちゃんは帰ってしまっていたしで気になっていたんだよ。ところで、足、どうかしたのかい?」
主人は、サチが足を引きずっているのに目ざとく気づいた。
「えっと……ちょっと、怪我をして……。」
「そうかい?何だか店の表もガラスが割れて、凄いことになっているけど、何か関係あるのかい?」
「えっと……。」この質問には、サチも大弱り。「お母さんに聞いて下さい。」何とかそう言い逃れるのが精いっぱい。
「そうかい?」和菓子屋主人は、いぶかしむ表情を見せたが、その途端、サチのお腹が空腹の音をたてた。
「おやおや……。」和菓子屋主人もこれには苦笑。サチは、というと、顔を真っ赤にしている。「朝ごはんはまだなのかい?」
恥ずかしさで顔を伏せたサチは、こくりと頷くだけ。
「お母さんは?」
「まだ寝てます。」
「そうかい。あの人もあまり家事が得意な方ではないからねぇ……。」言いつつ、和菓子屋主人は思案している様子だった。「おかみさんに伝えたいこともあったんだけど……。そうだ、さっちゃん、少し待っていてくれないかい?玄関の鍵は開けたままでさ。」
「え?ええ、大丈夫だと思いますけど……。」
「うちのばあさんに、何か用意させるからさ。少しの間、待っていておくれ。」
和菓子屋主人は、そう言い置いてすぐに立ち去った。残されたサチは、言われた通り、玄関の鍵はかけず、また足を引きずりながらも台所のテーブルに。何とか椅子に腰をおろしてしばらくすると、ガチャリと玄関の開く音。
和菓子屋主人とその奥さん、夫婦二人が揃って顔を覗かせていた。
「さっちゃん、お待たせしたね。」
和菓子主人の声。
入ってきた二人を見ると、主人の方がお盆を。奥さんは炊飯ジャーを抱えていた。
「簡単なもので悪いけれど。」奥さんがそう言い、主人がおろした盆に載っていたのは、ラップをかけられたお椀とお新香と海苔に鮭の塩焼き。
椀にかけられたラップをはがすと、味噌汁独特の匂いが空腹のサチの鼻を刺激する。
サチがらんらんと目を輝かせていると、そこに湯気の立ったご飯茶わんが加わる。
「本当に大したものじゃないんだけどね。」
和菓子屋の奥さんが申し訳なさそうに言うのに、サチは物すごい勢いで首を横に振る。
「そんなことないです。凄く嬉しいです。ありがとうございます。」
「そう言ってくれると有難いね。」
サチと和菓子屋夫妻が話しこむ声と気配、そして台所から漂う食事の匂いにつられてか、綾子がもぞもぞと起きだしてきた。
「あれ、旦那さんに奥さんまで……。」多少、頭がまだ回りきれない様子で起きてきた綾子であるが、テーブルの上に並べられた食事が目に入り、状況を察したのだろう。
「まぁ、申し訳ありません。こんなことまでしてもらって……。」
「別にいいんですよ。近所なんだから。」とは、和菓子屋の奥さん。
「何だか、表の方はすごいことになっているし……大変そうでもあったしね。さっちゃんもお腹すかせていたみたいだし。」とは、和菓子屋の主人。
「本当に、お世話をかけて申し訳ないです。」
「いや、だからいいんだよ、近所なんだから……。ところで、本当に表の方はどうしたんだい。」
ひたすら恐縮する綾子に対し、こう問う和菓子屋主人。この時だけは、普段はあまり見せない鋭い目つきで綾子をじっと見つめていた。
これには、綾子も黙りこみ、じっと考え込んでいたが……。
「すみません。」観念したように頭を下げる綾子。「今回だけは、追及しないで頂けませんか?ご迷惑をかけたことは、本当に申し訳ないんですけど……。」
「理由は言えないということなのかい?」
「はい。」
「さっちゃんの髪の毛のこともかい?」
和菓子屋主人の視線が鋭さを増す。
「はい。言えば、かえってご迷惑をおかけすることに……。ただ、昔のわたしの不徳が招いたこととしか……。」
和菓子屋主人の綾子を見る目が、さらに鋭さを増し、表情も険しくなった。
黙り込む綾子と和菓子屋主人、サチまでがその両者の醸し出す雰囲気に引きずられて、固まったように凝視していた。ただ一人、和菓子屋の奥さんだけが「お母さんの分もあるからね。」などと、にこやかにしている。
やがて、緊張した場の空気をほぐすように和菓子屋主人は大きく息を吐き、
「分ったよ、それでいいことにしておくよ。その方が……。」とサチを見つつ
「さっちゃんの為にもなりそうな感じだしね。」
と言って、この話題を締めくくった。
「ありがとうございます。」
「でも、二度はないよ。」
礼を言う綾子に対し、念押しは忘れない。
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