読んだ本の感想につけるべき話題ではないでしょうが、最近またプロレスを見るようになりました。
と言っても、会場に足を運んでいるわけでなく、あくまでも深夜のテレビ、それも録画です。
私がプロレスの情報に目を配っていたのは、新日本プロレスから橋本真也が離脱した頃くらいまで。
その後は、全くのノータッチと言っていい。
きっかけは、元新日本プロレスで現在は主にタレントで活動してる某レスラーのいわゆる「かわいがり」が話題になったこと。
その関係のスレッドを覗くと、「プロレス業界そのものが下火だが、とりあえずいまは新日本の一人勝ち」という話がちょいちょい出たので、「ほう、いまはどうなっているんだろう?」と視聴してみたのです。
いまは、オカダカズチカというスター選手がいますが、彼を見ていて「ああ、10年前に彼のような選手が台頭していれば、プロレスもいまよりは盛んだったろうに」と思ったのですが、10年前ならいま以上に古く悪しき慣習がはびこっていたでしょうから、どの道台頭できなかったか。
ある程度、その悪しき慣習が払拭されたからこそ、そうした人材が台頭できたのだろうし。それ以前はいくらいい人材がいても伸びることなく潰されていったケースが多かったろうなと。
いや、要するにいまは某維新の議員様になったあの方が強い影響力を持っていたのが諸悪の根源のひとつだったと思うんですけどね(笑)
そうそう、悪習といえば、新日本が復調したのは現在のトップ選手達が、道場内での悪習を完全に断ち切ってかららしいです。いわゆる「自分達がされて嫌だったこと、無意味だったことは絶対に下の世代にしてはいけない」これを徹底したかららしいですね。
マグダラで眠れ(支倉凍砂)
物語の舞台は、新たな舞台鉱山都市カザンへ。
新天地に拠点を構えた4人パーティは、いよいよ本格的なチームとして機能し始める。
相変わらずフェネシスはクースラにいじられる日々ではあるが、それでも平穏な毎日が送れるようになった・・・・・・と思いきや、カザン陥落は騎士団を包囲殲滅するための罠だった。
平和な日常から一気に戦火のまっただ中に放り込まれた一行であるが、逆転の可能性も。
それは異教徒の町カザンの伝承。
そして、その伝承にはフェネシスの同族、異形の者達の使っていた技術が隠されていた。
ここで明らかになるが、フェネシスの同族達って、作品世界においてはオーバーテクノロジーの持ち主だったんですね。
そのオーバーテクノロジーを再現し、なおその威力に賭ける切っ掛けは、イリーネの一押し。
イリーネといい、ヒロインのフェネシスといい、このチームはいい女に恵まれているな。
とりあえず、この小説は、魔法抜きの中世的世界観とフェネシスの小動物っぽさとクースラのツンデレっぷりを愛でる物語なのであります。
空に向かう花(小路幸也)
誰も悪くない筈・・・・・・なのに人殺しの罪を背負ってしまった少年がいた。
本人には何の責任もない筈・・・・・・なのに過酷な人生を歩まなければならなくなった少女がいた。
このお話は、そんな二人の子供達、ハルとカホが奇跡的な出会いを果たす物語。
少し前のエントリで触れた「捨て猫という名前の猫」とはいい意味で真逆の物語です。
「捨て猫という名前の猫」では、クソ大人達の自分勝手な都合によって悲劇的状況に置かれてしまう子供達の救いのなさが描かれていましたが、本作では逆に悲劇的状況に置かれてしまった子供達に大人達が「何かせずにはいられない」と微力ながらもその手をさしのべるお話というべきか。
二人の大人、ザキさんとキッペイのあがきながらも差し出す手がたまらなく温かい。それは確かに小さな力ではあるが、その小さな力でさえも浮き世のしがらみは絞り出すに強い心の力を必要とする。
作中一番好きだった台詞はザキさんの「大人は子供の前では必死に大人を演じなくてはならない」というもの。
自分の都合に逃げたり、大人の責任を放棄したりしないのは、強いからではなく、子供達のために強くあろうとするから。
救済と言うにはあまりにささやか、しかしそれがあれば、何とか子供達は前に向かって進んでいける。逆に大人が大人の役割を放棄したら・・・・・・「野良猫という名前の猫」になってしまうわけですね。
銀河に口笛(朱川湊人) ← 電子書籍
正直に言います。世代的にジャストミートです(笑)
内容的には、朱川湊人さんお得意の昭和を舞台にしたノスタルジックな物語。
SFと呼ぶべきか、ファンタジーと呼ぶべきは、人によりけりでしょう。
とにかく、昭和40年代の下町を舞台にした主人公達のグループ「ウルトラマリン隊」の活躍、その一挙手一投足が懐かしくて仕方ない。
物語の主軸は、主人公モッチの語り口で描かれる彼ら、特に不思議な転校生リンダこと林田君であるが、単独エピソードとしては「ミハル」にまつわる話が好きであります。
「ミハル」・・・・・・彼と言うべきか彼女と言うべきか、いまでいうところの性同一障害の少年が抱える苦悩とその開放、おそらくリンダの存在なしには開放されることのなかった彼女の魅力は何とも言えない。同世代だったら惚れていたかもしれないと考える私は色々ともうダメだ。
私の読んだのは、文庫版で刊行されたものを電子データ化したものでしたが、これには単行本刊行時にはなかった本編5年後のエピソードが追加されています。
そこで語られるリンダの存在は大方の予想通りではあるのだが、それよりも長い年月が経った後もつづくウルトラマリン隊の絆が何よりも羨ましい。
朱川湊人さんの作品を読んでいつも思わされるのは、この方、子供の頃の「自分」をちゃんと持っていること。
ある程度年齢を重ねると、子供時代の自分の感覚といまの感覚とが乖離して、全くの「別人」のようになってしまうと思うのだが、この方はいまもあのときの「自分」のままでいるのではないかと思えてくる。
その意味では凄いと思い、また羨ましいとも思ってしまうのです。
アルケミスト-夢を旅した少年(パウロ コエーリョ) ← 電子書籍
実に「らしくない」ものに手を出してしまった(笑)
こうした「文学」など、実に私に似つかわしくない。
その証拠に、読み終わるまでに結構時間がかかってしまった。
ただ、全体の2/3あたりからは、一気読みではありましたが。
羊飼いの少年が老いた王に出会い旅立つところから物語は始まります。
普通、人間、特に私のような面倒くさがりは、一旦腰を据えるともうどんなに閃きを感じても、なかなか腰を上げようとしないのですが、主人公の少年サンチャゴは己の閃き、夢の啓示に従い、錬金術の深淵へと足を踏み入れていく。
ただ、タイトルにアルケミスト(錬金術師)とありますが、少年のめざすものは「宝」であり、錬金術師を目指す話とは微妙に違う。
山野を離れ、街に出て、砂漠に赴き、生涯の伴侶となる少女=ファティマを得、本物の錬金術師に出会い、最後に「宝」を手にする。
人は、己の心の声に真摯に耳を傾ければ、どこまで自由に、幸せになれる。
意地の悪い見方をすれば、一種のユートピアものともいえるが、世界中の人達を魅了した物語であるその理由は、心のままに動く主人公への憧憬ではないでしょうか?
実際には、色々なしがらみを考え(それも結局自分で作っているということになるのでしょうが)、動くに動けないというのが殆どの人々でしょうから。